2017年3月10日金曜日

東屋敷平仁 解説貧家記考 TOP of contents


解説平敷屋朝敏 貧家記考序章

『平敷屋朝敏という男』



 長きにわたって牢獄生活を続け死ぬ間際の辞世の句にまでも辛辣な体制への批判を塗こめて抵抗運動を諦めなかった琉球の国士・平敷屋朝敏という人物は一体どのような人間であっただろうか。思うに安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された吉田松陰(享年30満29歳没)や自衛官よ立て!と当時の自衛隊市谷駐屯地で割腹自決した三島由紀夫氏などと極めて似通った志士であったろう事は推測ができる。

 だが、琉球という温和な人間社会で体制が下した処断としては想像を絶する惨い刑罰で死地へ追いやられねばならなかったほど朝敏は体制の権力を揺るがす男として巨大な存在であったことは如実にその歴史が証明するであろう。


乱れ髪さばく世の中のさばき

引きがそこなたら垢もぬがぬ


大和文学一辺倒の大和かぶれの大和文学者が得意な大和言葉による五七五七七調の辞世の句ではなく八八八六調の琉歌による辞世の句を遺したことはおよそ想像できかねることである。
 人間は死に際の辞世を詠む場合はもっとも自分が得意な言葉を使って現世での遺恨や主義主張を後世へ伝えたいと考えるのが当たり前であろうし幼少の頃より大和文学一辺倒であった朝敏であれば大和の言葉で辞世の句を遺したい思うのが至極当たり前ではと考えられるはずだ。
 その辞世を朝敏は何故、さんぱちろく(八八八六)の琉歌で詠み遺したのか。この疑問によって朝敏の閉ざされた史実への謎があるのだと考えが行きついた。

 朝敏は辞世の句を琉歌で綴り遺すことで後世へのメッセージを告げ、圧政からの世替わりを信じて過ぎ去りし時の流れがいつか真実の解明に行きつくことに期待したかったのであろうと私は考察した。これは朝敏の祖国琉球への思い入れの深さであり、またひとえに己自身が琉球人であることを強く意識している気持ちを伝えたいものであったと捉えられるが、それだけではなく敢えて琉球の言葉を使用したことで、朝敏は大和と琉球の関係に不自然な思惑が働いていることを暗に30韻の句に込めて遺していたと読み解いてみた。

 革命家平敷屋朝敏が辞世の句でこの時代や後世の琉球の民衆へ語り掛けたかったメッセージとは何か。
 事件当時の民衆は権力の弾圧に抗いきれずに血涙を呑んで朝敏らの処刑を見守るしかなくその後も朝敏のことはおろか後世が「落書事件」としか記録されていない「お国の難題」による大革命行動の片鱗も語り継ぐことさえ禁止され一切合切が闇へと葬り去られこの世の史実から抹消されてしまった。

 琉球王国の権力を束ね牛耳る三司官制度による時の大権力者は蔡温であり、蔡温は歴史記録では名相の誉れを一身に浴びて民衆が支持し敬服したと記録されている。しかし、その実この事件に関してはまさに地獄の閻魔大王のような血も涙もない凡そ日本の刑罰史上にはありえなかったほどの残虐な大陸的刑罰を科して「落書事件」の関係政治犯の一団を悉く処刑している。その処刑は人間の仕業とは思えるものではなく、大衆への見せしめとしての恐怖を震撼させた刑罰の執行に拠っている。 事件の核心を摺りかえられて後世には単なる逆賊集団をたっぴらかした(※1)だけのような不透明な事件として記録のすべてを改ざんし歴史の記録を書き換えた。

 それほどに当時の三司官蔡温の権力は絶大で誰もが異議を唱え反論の声を挙げることが不可能な時代であったのだろう。この事件を契機に蔡温は琉球王国の日本とのつながりの証明となる公文書のすべてを焼き捨て、新たな虚構捏造の史実を漢文のみで記録することに着手し実行した。まさしく、大陸支那人の民心掌握の虚構の焚書坑儒の歴史の刷り込みがこの時代に行われているのだ。

 そのような強大な権力行使による弾圧、処刑の瞬間までも抵抗し確固として信念を貫き信条をを曲げることなく体制を糾弾し批判してそのの果てに抹殺された朝敏と言う人間像を私は延々と半世紀に渡って見つめ考え続けてきた。そのような長い年月の中で朝敏への募る思いは大きな波のうねりのように盛り上がり岩を穿つ怒涛のような憤りを何度も何度も叩きつける如くに胸に湧き上がらせている。そうするうちに何かしら当時の事件の重大な部分が少しづつベールをはがし一つの確かな真実として私の脳裏に焼き付きその当時の闇に葬られた真相が甦がえるように独り歩きしだしている。これはもはや想像の域を脱して完璧な時代考証と歴史の類推事犯からの推理と考察の積み上げによる真実の解明だと自負するに至った。

 辞世の句を朝敏は万葉歌でも詠んだことだろうと推察できる。
歴史の記録には何もなくとも朝敏を愛し朝敏を長きにわたり愛し見つめ朝敏に成り代わって事件を再検証している私には朝敏の心の在り様や模様が遺された遺稿から如実に伝搬してくる。まさに朝敏の魂が憑依したように当時の有様が走馬灯のように脳裏を駆け巡り浮かび上がってくる。

乱れ髪さばく世の中のさばき

引きがそこなたら垢もぬがぬ


この琉歌の八八八六調を和歌五七五七七調にそのまま読み替えると・・・

乱れ髪 さばく世の中の さばき櫛

かけてさばけば 垢もおちぬに 
東屋敷平仁和歌(※2)

 和歌の上手い下手は問題外として朝敏はこのような気持ちを伝え遺したかったことであろうと読み替えてみればまさしく髪を梳く櫛である国の法が悪いと言及していることが明瞭になる。この場合の櫛とはまさに琉球王国の国法であり、法を執行する三司官そのものである。

 ”裁く法に正義がなければ真実はない”・・・と書き遺して逝った琉球の国士朝敏に勝利したと確信した蔡温は事件を闇に埋め覆い隠して完全抹殺したと考えて処刑した記録だけを遺す事を許可したのであろう。だから辞世の句がこれほどの体制批判が籠められていても際温は気づくことなくこの句の抹殺はしなかったのだと思うが、朝敏の意思が魂がこの句を抹殺することを頑なに拒んだだのだと朝敏贔屓の私は思いたい。

 この句に出会い私は「落書事件」の事件の全容の一端を掴んだ。そして今、朝敏の残した作品の中から当時の朝敏の思想を紐解きそれを徐々につなぎ合せている。

 その過程で心にもたげたことのひとつに、蔡温も長い歳月をかけて朝敏の心変わりを願っていたのではないかと考えてもいる。蔡温も実は天才朝敏が好きだったのではないかとも考えられなくもない。
 だが、真実は非情な傀儡政権下の権力構造の力によって決定されていった。

 朝敏の長い牢獄生活はただただこの事件の報告と裁決の決済の為に大陸との行き来に擁した年月だったのだろうか。宗主国への事件の報告とその判決の命令書の到着に時が必要だったのは確かに考えられるのだがそれ以外の何か別の思惑や他の思いもよらない偉大な力によって刑の執行までに十分な時間を平敷屋朝敏に与える必要が在ったと判断し、その大いなる理知の偉大なる力と意思で朝敏を延命させていたのではないかと神がかり的に考えられるほど朝敏は見事に事件の概要を記録し後世への遺言として遺すことに成功している。だから、日本の刑吏史上に類を見ない惨虐で非道な焚書坑儒の大量処刑がミセシメとして実行されたにもかかわらず、日本では考えようがない惨忍で悲惨な刑罰の方法で民衆の目前でじわじわと苦しめながら惨殺したとする処刑の伝説以外のすべての事件記録を抹消して隠滅している事件の闇に消え去られた真実を朝敏は随筆貧家記の執筆の機会と時間を得て現代へと遺すことが可能だったのではないだろうかと考えが至ってみるとこの貧家記こそ神の啓示となり得るほどの尊き愛と自由のバイブルになり得るものだと思うのである。

 それらの僅かな断片的な史実が私の推理力をどんどんと空想の世界から18世紀初頭の琉球王国の現実世界へとタイムスリップさせて真実を見せつけてくれた。
 時代が傑出した稀代の天才和文学者朝敏の人間的な価値を蔡温ほどの大人物が毛嫌いするはずはないとしか思えないが民族の倫理観や観念的な相違は相容れないものがあるのかもとも感じると一概に蔡温が朝敏をわざと延命させていたとは考えにくし、またそう考えることは100%間違った判断だとも考えている。

 では、誰が何故と言う疑問は拭い去れはしない。その朝敏の延命の時間を与えた者の存在を長い期間探っていた。当時の琉球文化の文学の壇上を席巻し喝采を浴びていた時代の寵児平敷屋朝敏その男の偉大さを知り、その力を消されたくないと思っていたのは誰なのかと言うこともこの貧家記考の解決すべき重大なテーマのひとつであった。
 琉球の民衆だけでなく権力を行使した体制の中核の人間たちも誰一人として彼を抹殺したくはなかったのであろうと思いたい。

 朝敏が処刑されて一、二年の間に組み踊りの創始者玉城朝薫が、朝敏の師・名護親方程順則が跡を追うように冥途へ旅立たれている。

 このふたりの偉人はどちらも朝敏とはゆかりがありつながりが深い。その二人が相次いで死去していた、偶然だと思えばそうかも知れないが私にはこの二人の偉人は天才朝敏の旅だった哀しみに打ちひしがれて朝敏への哀切のストレスが死期を早めたのだと思い当たる反面消されたとも感じている。

 朝敏と言う男、時代の荒波をかいくぐる事は出来なかったが全琉球人に愛されて人生を全うし、後世の民衆の心の支えとなって民衆のエネルギーの源に為り得たのではないか。
そう考察し書き綴っているとこの男こそ素晴らしい人生を行き抜いたのだと感じて泪が止まらなくなる。

 沖縄の方々が彼ら平敷屋友寄組の生きざまを世に知らしめてくれることを願ってやまない。

平敷屋朝敏考 東屋敷平仁(あがりやしきへいじん)著


貧家記考序章

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東屋敷平仁 解説平敷屋朝敏辞世の句考察



乱れ髪さばく世の中のさばき

引きがそこなたら垢もぬがぬ
組踊り手水の縁(ハンザヤマー)で知られる琉球王国の稀代の天才国文学者・平敷屋朝敏は、尚敬王の治世に三司官蔡温によって大陸の刑法で処断されて無念の辞世を遺し、安謝の珊瑚の白砂の刑場で八つ裂き串刺し磔の極刑に処せら無惨に抹殺され天逝した。
三十五歳の若さでこの世を去った朝敏に民衆の誰もがその惨たらしい死にざまに不憫だと涙したがその涙を見せることも憚るほどの独裁的圧政により事件を語り次ぐことも禁止され、時の流れの中でいつしかな誰もが記憶の辿りようのない不可解な事件となった。
独裁者蔡温に反逆する勢力は根絶やし一掃されて事件を深い闇の中へと押し込んで蔡温は時の名相と呼ばれて崇めらていたような記録が多く散見しているが、それは反面、恐怖による弾圧を受けていたことを想い辿る根拠になっている。

平敷屋組友寄組の事件関係者15名が日本の政治犯刑罰史上ではあり得ないほどに大量の残虐な死刑が実行されて民衆への反逆行為を厳しく抑圧し恐怖によって再発防止策とする弾圧手法は凡そ大陸的であり日本の刑吏史上にない残虐な行為だった

この事件の終結方法によって巷の世相には朝敏に関する話題は暗黙的タブーとなって事件は闇へ葬られて史実から姿を消すことになってしまった。事件の真相・原因・因果の全てが圧政者蔡温の命令でもみ消され後世は一大国難事件の真相を究明する手がかりとなる全ての資料を奪われ検証の手がかりを失ってしまっている。

私はこれだけ稀で優れた文人がその存在のすべてを唯一少ない作品にだけしか見ることができないほど人間朝敏の情報を限りなく抹消し尽くしていることに驚かずにはいられない。そして何故こうなったのか何ゆえに歴史を消し去り隠蔽しなければならなかったのかを約半世紀ほどの年月に亘って考え続けてきた。
事件の詳細な情報はなく、記録に残されたのは事件の表題として「落書事件」が「御国の難題」であり、その事件関係者の首謀と一味の合計15名の処刑の方法と処刑地、その血縁者の流罪の記録のみがわずかに秘密裏に遺っていただけで公的な記録は一切残されてはいない。内容に関しては現代に伝わる資料が皆無なので事件の検証など不可能なのだが他の同類の事犯から類推したり時代考証から推理したりしながら考察することは可能だった。如何に蔡温と言えども琉球士族に伝わる系図への記録の詳細までは万全に検閲しつくすことも不可能だったようで各地の士族家譜に縁者の流罪地名や年齢など記載されて事件の痕跡を語り伝えている。これらは何分にも詳細ではなく僅かな断片的な記述なので、時の権力の検閲を掻い潜って蔡温の死後に記述されているものである可能性も否めない。ここまでみごとに事件の真相を歴史記録から闇に葬った事象の異形な行為を推理すれば権力中枢を牛耳っていた三司官蔡温の強大な権力構造が象徴する琉球国の圧政が浮かび上がってくるだろう。それはひとえに民衆への弾圧でありその民衆の弾圧からの解放を目的にした朝敏の革命運動が史実として実在した証左でもある。また、その朝敏の思想的行動が支那人蔡温にとっては殊の外煙たい存在であり琉球王国の存亡に大きな影を投げかけた大反逆事件と捉えて事件の存在そのものを抹消すべくすべてを隠蔽して闇へ葬らねばならなかった証左でもあろう。

私は当初は中国からの渡来移民の蔡温の大和文化への反感による私怨が招いた事件だと思っていた。だからこそ事件性の重大な歴史的なクーダター(謀反)という王国のハプニングを当時の役人達が記録として遺せなかったのではなかろうかと邪推していた。記録はすべて蔡温の都合のよい事実へと置き換えられて不都合はすべて抹消している。
したがって、事件の核心的な部分は全く知ることが出来ない。単なる落書き事件として扱いながら、その罪状に比して執り行われた刑罰は日本の歴史上でも類を見ない残酷無比な処刑が実行されている。
重大な判決をして惨虐刑を執行した事件の核心部分が後世に再び芽吹くことがないように完全に種を根絶やしにしてその痕跡さえも残すことなく処理できた蔡温という人物の実力には驚くしかないが、そうするしか王国の存続の手段をみいだせなかった時代の蔡温を含めた琉球王国の役人たちが舐めた辛酸が私の心にも伝わってくる。

中国との冊封関係と薩摩支配の板ばさみ・・・その中で起きた前代未聞の大和政権への幕藩復権運動。 私はこの「落書事件」の真相をこう捉えた。

だからこそこのお国の難題の落書実行首謀犯朝敏に関する犯罪記録資料は皆無で、組踊の戯曲として僅かにその作品だけが玉城親方朝薫によって伝えられただけの怪奇な現象になっているのだと結論付けることができる。
本来であればこれほど重大な犯罪の記録、刑の執行の資料は必ず保存されているはずである。それがこの事件に限って裁判や刑の執行に限らず事件の推移や事件の内容の刑を処断する根拠の書庫文書のすべてを消滅させた意味は何かと推理を展開すればするほど前述の「大和政権への幕藩復権運動」であったろうと結び付けるしかなくなる。

日本の刑罰史上を遡ってもこれだけの大量な極刑履行事件は類を見ない。 藤原氏全盛の奈良平安時代のクーダター事件でさえ首謀者の一味皆殺しなどは無かった。 わずか首謀の要人2,3人が斬首されて結着するのが一般的な日本の刑罰史だ。
この事件では罪状が「落書による騒乱罪」であることを明示して15名の大量極刑。刑の執行方法も極めて残忍な多勢の刑吏(朝敏の場合には16名以上であったらしい・・・。)が木のささくれ立ったやり状の棒で突き上げては抜き、また突き上げては抜きと絶命するまで数時間かけて苦悶をあたえて執行したようである。
明らかに刑の執行が事件を起こした罪人に苦悶を与えるための刑ではなく、この刑の執行によって類似の思想犯への見せしめとするための刑の執行であったと断定できる。残虐性を見せ付けてこのような事件の再発防止とこの事件を世に知らしめたくない真相の隠蔽を残虐性を見せつけることで周知徹底し容易に犯罪の抑止を図りたいためだと推測できる。恐怖政治を引く必要性がこの時の蔡温にはあったのだと類推できるしそこまで徹底した計算があったからこそ当時、庶民には格別な人気があったであろう文人朝敏の残虐な処刑を決断した蔡温が逆に後世に大偉人として記録されて琉球の誉れとまで言わしめさせたことから覗い知れる。

琉球を愛して命を捧げた朝敏、琉球王国の存亡に死力をかけて臨んだ蔡温。

どちらも正義でどちらも立派だとしか他に思いようがない。

朝敏はこんな刑の執行にも気力を消滅させることも無く刑に耐え抜いていたようで、これを看かねた朝敏の弟が自ら申し出て一突きで落命させ冥途へ旅立たせたという逸話がある。この逸話は真意がどうであろうとそれほど朝敏は民衆に愛され民衆が朝敏の死を望んでいなかったことが根底にあったからこのような逸話が生まれたような気がする。実際のところ刑場の中に身内が入ることなどは絶対に不可能なはずだ。だが、あえてこの話が言い伝えとして残ってきたことを考えると刑吏の大勢の人間たちも誰一人として朝敏に止めを刺すことなど出来なかったのだと私にはそう思うしかない。

琉球の民衆のすべてが朝敏を愛してやまなかった。 これほどこの落書事件一派への憎悪と怨みが感じられる処刑が執行されたということは逆に考察すれば蔡温にとっては朝敏の思想が王国傀儡政治終焉になる要因であった証である。だからこそ根こそぎに消し去ってしまうしかなかったのであろう。 この事件の真相を認識し闇に放り込まれた不透明な部分を正しく理解し解明しない限りこの事件はただの「落書事件」として世の中に定着し闇に葬り去られたままとなろう。

乱れ髪さばく 世の中のさばき

引きがそこなたら 垢もぬがぬ


この辞世の句には無念の朝敏の切ない思いだけではなく最後まで正しい法に拠っての裁きが得られない体制への辛らつな批判が込められている。
間違いを糺す側にこそ間違いがある、だから従わぬ。・・・と朝敏は最後まで戦って世を去った。 あたかも蔡温に対する直言であろうし、また朝敏を愛する取り巻き達への朝敏の心意気を語ったものでもあろう。

辞世の句は朝敏の得意な大和文学の和歌の五七五七七調ではない。 朝敏にはない琉歌の八八八六調で辞世を遺している。 これこそが朝敏が後世へ伝えたいメッセージなのである。 朝敏は辞世うを遺すに臨んで自らのアイデンティティー(identity)を主張したのである。 琉球の人間として琉球を愛し琉球の人々を愛していることをこの琉歌の辞世の句に遺したのである。 琉球のすべての人に琉球の言葉で訴えているのだ。 だからこそ和文学の大家といえるほどの万葉言葉の卓越した朝敏があえて琉球の言葉で辞世の句を遺している。
なぜ、そうしなければならなかったのかを突き詰めて考えれば朝敏の真摯な切望の一端へ辿り着く。大和民族としての琉球人としての誇りと尊厳を毅然として示しての最後の一句なのだ。

当時の治世が後世へ伝えている三司官蔡温が偉大だとする業績がどうであろうとこの辞世の句が語る朝敏の真実の叫びを現代の沖縄の人々は真摯に受け取らなければならないだろう。
もし平敷屋朝敏が生きているとすれば・・・
私にそう語るであろうから・・・。
そして、
朝敏一派の断罪を決定した首里城に立っていると正殿の絢爛豪華な伽藍の奥から
「大和の文化などは無用じゃっ、 琉球は大国清の属国としてあるのだっ。 そうしなければ琉球王国は滅するしかないっ!」

と非情な声でうめき叫ぶ蔡温の魂の雄たけびが聴こえてくる。

人を誅して国を守る。

人を糺して国を造る。


蔡温と朝敏の国と民衆への価値観が違っていたのだろうか・・・。
いや、そうじゃなくて蔡温もきっと朝敏にはもっと生きて欲しかったのだろうと考えていたと思いたい、だが蔡温には大陸の命令を行使して琉球国を掌らなければならない大命があった。ただそれだけの立場の違いだけだったのであろうかと考えれば二人とも時代の大波を航海し激しく力強く荒波に挑んで生きた歴史の証人だったのだと思いたい。

私は朝敏の罪状がどうであれ・・・
平敷屋朝敏という男が大好きだ。
好きだからこそ朝敏の無念の声が語り掛けてくる。


琉球王国2大女流歌人の怪《予告》


 私がある時期の以前の琉球史を考察する上で一番大事にすることはインスピレーションである。何故なら、その時代以前の琉球史はそのほとんどの史実に信憑性が薄いからである。 いわゆる検証することも論証する事も不可能に近いほど記録が皆無なのである。
 多くの沖縄の学者はこの問題を琉球は文字の導入がすこぶる遅く記録に遺すことができなかったと記述している。あきれたことを言うものである。  文化が伝播して言語がもたらされたと言うことはその言語を使う人々が導入したと言えるだろう。人が入植すれば言語に付随して文字が当然もたらされるに決まっている。 ましてや琉球人の祖先は大和人なのだから当然大和文化を持って渡来した琉球人の祖先たちがいてその人々が大和の各地と交易をして大和文化の進展の度合いに見合った琉球圏独自のの大和文化を培ってきたのである。
 と言うことはとりもなおさず大和の国が文字を使用していた時には並行して文字を使用していたと考えねばならない。同じ文化圏で言語が同じなら当然に文字の導入時期も同じであったはずである。何をどう考えたら文字だけ後から入ったなどと理屈や道理に合わない解釈が出来るのであろうか。
 琉球の歴史記録がある時期以前を境にして極めて不明瞭で明確な記録が残っていないことがこういった可笑しな論調をさも当たり前のように考えてしまうことになったのであろう。 問題はこのある時期にある。このある時期以降に遺されているものの公文書の記録以外の歴史書はすべて漢語で編纂されたものだけだ。 この事実は何を物語っているのかに気づけない沖縄の歴史学者にその思慮分別の少なきことに呆れるばかりである。沖縄の歴史学者を貶すつもりはないが、自国の歴史が文字の導入が遅れたために記録が遺されていないと短絡的に考えてそれを公の真実の結論と断じていることに失笑さえ禁じ得ない愚かな言説に驚いたものだった。
 では、おもろそう紙はどうであろうか文節や文体、さらに表現法などから時代考証すればその多くが中世の初期以前の千年以上も前に綴られていることに気づくであろう。その歌がすべてが口伝口承の口頭伝承であると断じて一切を文字による記録はないと決めつけて考えようとしていない。それは何故なのだろうか、意図的に琉球では文字の伝承が遅れたとの歴史的事実を裏付けるために記された検証の源になる文献が存在でもするのだろうかと訝しさを拭えないのである。 結論を述べてしまうと消しさった歴史を隠蔽するための虚構の史実を鵜呑みにしているからである。

羽地朝秀が編纂したという「中山世鑑」が琉球国初の歴史書だと言って憚らないのは、私にしてみると愚か者でしかない。中山世鑑を台本にして蔡温の父・志多伯 天将(したはく てんしょう)蔡鐸が修正加筆して「中山世譜」を編纂したと記録されているようだが、これもマヤカシでしかない。
三司官・蔡温が平敷屋友寄事件で平敷屋朝敏以下15名の「落書事件」の『お国の難題』事件の政治犯を抹殺したことでも推察可能だが、蔡温の父蔡鐸の時代から琉球と日本との関係の記録の抹殺は国策として行われていた。だからこそ、それに異を唱えた平敷屋友寄組の大獄事件が発生しているのだ。
このように歴史の謎をつぶさになぞって検証すれば、行きつくのは同じところだ。沖縄に蔡鐸・蔡温時代以前の公的な歴史記録がないのは明らかにその時代を境として歴史の改ざんが行われた証左ではないのか。
こんな簡単な推理さえせずにその歴史改ざんの事実を隠蔽する目的で記録された公文書を正統で正当な史実として受け入れていることの愚挙愚劣を正して虚構史を真実史に変えることを真剣に考える時代が来ている。
そうしなければますます沖縄は不確かな歴史の上に翻弄された支那の属国の汚名を永遠に払拭できないことになろう。
蔡鐸蔡温によって日本語で記された琉球国の歴史書のすべては二千年も以前から焚書坑儒の如き弾圧の手段として支那人が得意としてきた圧政の治世術によってすべてこの世から燃え尽くされ琉球国正史は闇に葬れているのだ。
それが大陸の奴らのやり方だと後の世にも伝え知らしめておくことがなければいずれ彼の異形の歯牙に傷つかねばならぬことにもなりかねないことを少なからず危惧して警鐘を打ち鳴らしておかねばならないのだ。
それを三〇〇年も以前にやろうとしていたのが平敷屋朝敏とその同志たちであった。
朝敏によって大陸の思惑を封じられようとした蔡温は日本の刑罰史上類を見ない惨虐な処刑をもって見せしめとして後の世までも日琉の絆を政治闘争の具にすることをタブーとしたのだ。
その闘争のなかで朝敏たちは反体制活動の弾圧を避ける為に様々な策を以て対抗していたのだが、そのなかでも特異な情報の伝達手段のひとつに当時ポピュラーな琉歌を利用していたことに思い至ったが、すべて仮定の話なので信ぴょう性を裏付けられるのはなかなか難儀なのだ。
この話は後の作文にまとめたいことなので秘密のベールで包んだままここではこれで切り上げてしまうが、乞うご期待と思わせぶりだけは匂わして締めたい。しかし、これでは何の話か皆目見当もつけられない方が多いのだろうと推察できるので、ヒントをこの文章のタイトルにして記して置いた。隠し表題の意味深なことへ興味が湧いた方にはまさにこうご期待なネタである。

東屋敷平仁著
貧家記考序章

中山詩文集回顧

-琉球王国伝承の漢詩文集は当時の琉球国の偉大な詩人達のかけがえのない人類の遺産である。  
 沖縄の歴史は薩摩藩の琉球進攻によって大きく時代の流れが歪行した。薩摩の琉球入り後・1761年の察温の死がさらなる薩摩の支配力を増長した。一つの時代の区切りとなるこの時期は、琉球王国の歴史を語る うえで切り離すことのできない重要な時代である。琉球における漢詩の歴史という狭義な分野ももちろんこの時代の大きな波を受けていてひとつの区切りであっただろうと私は考える。

 さておき漢詩の訓読法の普及によって琉球の漢学は著しい進歩を遂げて、にわかに高名な詩人が時代の荒波を乗り切って闊歩し一躍琉球人の存在は世界の注目を浴びる様になった。漢詩の分野だけで捉えてもいわゆる琉球の黄金期をと断言できるのではないだろうか。琉球漢詩の目覚しい隆盛期であった。そういうめざましい脚光を浴びた背景の中、もっとも注目された出版遺稿は琉球王国初の漢詩文集『中山詩文集』である。この漢詩集は、当時の琉球王国の高位な官吏であった程順則(当ブログ「六兪衍義」を参照)が琉球の進貢国の中国から渡来した帰化人の専住区である久米村の詩人(琉球帰化人では在るが元来中国語を生活語としていたので中国語の漢詩は当然長けたものがあった。)を中心にして編集したものである。編集者の程順則の詩がその大部分を構成したものであったのは編集者である程順則の琉球人(程家への養子であり父はもともと琉球人であり生粋の琉球人の心を育んでいたものと思われる。純琉球人としての深い愛国心と郷土愛が形成されそれが本詩集の編纂に大きな影響を与えたことは容易に推理できる。琉球への思い入れが作品に反映しているのだと考えて疑わない。人情的な分析でそう考えるにいっ到った。)としての誇りがそうさせずには居られなかったのだと痛感する。

 大半を占める程順則の詩はそのどれもが秀逸である。 これらの詩集の出版の後年、1705年に中国で『皇清詩選』が出ている。その中に琉球王国の詩人の作品が およそ七〇首も収められている。その多くがこの程順則編纂の『中山詩文集』の中から紹介されたであろうと推察できる。なぜなら程順則は生涯5度におよび渡清していて琉球の詩集を中国側へたびたび紹介しているし他の琉球王朝の官吏たちに比してそのことに積極的たっただろうと推察できるからだ。あくまでも是は私の個人的な推理であって程順則が私にそう語っているわけではない。  中国での『皇清詩選』の内容は、清国を中心にして周辺の朝貢国である朝鮮・安南・琉球などの詩人の作品が収められている。この時代にこれだけの多くの詩を集めて豪華な漢詩集を編纂できた中国の力量にあらためて驚かされる。さすがに中国5000年の歴史は只永いだけではないことに嘆息する。  この詩集『皇清詩選』に程順則らの時代の寵児達(日本の監視の分野で。)の作品が収録されて現代に遺されていることはそのことだけでも感嘆に値するであろう。  

漢詩文集『中山詩文集』には  
              
執圭堂詩草(しっけいどうしそう)』   曽益著        
観光堂遊草(かんこうどうゆうそう)』   蔡鐸著        
雪堂燕遊草(せつどうえんゆうそう)』   程順則著(雅号雪堂)
翠雲楼詩戔(ういうんろうしせん)』   周新命著        
寒窓紀事(かんそうきじ)』      蔡肇功著        
四本堂詩文集(しほんどうしぶんしゅう)  蔡文薄著        
澹園詩文集(たんえんしぶんしゅう)』  蔡温著

 などが収録されている。
  この時期は程順則ひとりの存在がひかり輝いて見えているが、それは彼が漢詩の世界に卓抜なる才を漲らせているからに他ならず五回におよび中国に行っていることや江戸上がりで琉球王に随行して日本の風土を肌で実感したことなどはこの『中山詩文集』にはまだ織り込まれてはいなかった。これらの後の作品に遺している。  彼は中国からの帰国の時には自身の著作や中国の文献を版刻して持ちかえったり中国の書物を買いあさったり、友人や知人にまでもさえお土産として中国の書物を大量に持ち帰った。  
『十七史』・『皇清詩選』・『枕山楼課児詩話(ちんざんろうかじしわ)』(順則の中国福州での師・陳元輔の著)などは彼が持ち帰った著書の一部分である。自著『指南広義』など私費を投じて福州で版刻し持ち帰っている。なかでも『六兪衍義(りくゆえんぎ)』 は、日本各地の寺小屋(てらこや=下級の子供向け私塾)の教科書として用いられて日本人の心の下地を形成する原著となったと言いえるだろうと私は思う。    そんな程順則の魅惑に溢れる漢詩の世界をこの『中山詩文集』は余すところなく伝えている。  皆様も漢詩に親しまれてはいかがでしょうか? 東屋敷平仁 著 2017レジステッド </p>
東屋敷平仁 記述
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 -六諭衍義-

六兪衍義(りくゆえんぎ)[rikuyuengi] とは琉球王国の高官であった程順則(ていじゅんそく;1663~1734=新井白石などの当時の日本人の著作を中国へ紹介した。)が生涯5回の中国往来のなかで順則44歳のときに進貢正議太夫として朝貢した時、帰国に際して版刻編纂(当時の日本人向けとして書き下ろしたという。)して持ち帰って当時の日本の児童教育などに多大な貢献をもたらした道徳教育書である。  その著は明の太祖洪武帝が国民への訓書として編したものであった、その内容は道徳的に豊かで人が人として守らなければならない教えを6つにまとめて説いたものでいわば今日的にいうと「文科省推薦道徳教科書」の様なものであったという、「衍義」とは解説を意味すると事典に書いてあるので長文の解説が付随しているものと思うがわざわざ図書館で調べることなど私には面倒なことなので省略する。機会あるときにこのブログに付け足してみたいとは考えてはいるのでご期待いただきたい。  その六諭衍義を当時の教育者が寺子屋の教科書として広く用いて日本人の道徳観念の礎を培ったということらしい。私が幼少期は亡き父に教え伝えられたその【六兪衍義(りくゆえんぎ】は

* 父母に考   
* 長兄に敬    
* 郷に和し    
* 子々孫々を訓し    
* 各々理を悟り
* 勧善懲悪

であるべし であったが、いささか現代的にしすぎている感は否めない。  父は私が覚えやすいようにこの様にしたのか元来こう言う風に口伝されていたのかは今となっては確認の術が無い。本来は漢文で      
考順父母      

我夕景を臨みて 古城の高台に登る 緑深なる森に 茜焦がす西天を仰ぐ 束の間の大日輪遂て墜つ 蒼雲天を尽くし 藍霞いぶる浦 万重なる慶良間列島 群青を連ねる その影を九重の西海に 濃紺に染め 美を極め 感嘆を為す
尊敬長上      
和睦郷里      
教訓子孫      
各安生理      
毋作非為 
と書くようである。ともに意味は      
父母に考、      
長上に敬、      
郷里と和睦し、      
子弟を教訓し、      
生理に安んじ、      
非為作すなかれ
 となる。 もっと解りやすく
現代語にすれば、      
親に感謝して、孝行しなさい。      
年配者を尊敬しなさい。      
ふるさとを愛し、助け合いなさい。      
子供に道を教え導きなさい。      
自分の生涯を努力して悟りなさい。      
悪いことをせず、善行を当然として生きなさい。  

というところでしょうか。 原点となる原典は孔子の論語といわれる。 さすがに中国の歴史は重厚であることを感じさせられる。 ひとつ気になることは父はこれを朱子学と私に教えたことである。  朱子学だと程順則がこの著を日本に伝える以前に伝承されていたことになるのではないだろかと思うがどうであろうか?私はそこまで詳しいことは解らないし知りたいとも思っていないのでご興味のある方は各々お調べください。  とりあえず昨今大切な教えを我々は見失っているように思えてしかたがない。嘆息・・・!
東屋敷平仁 著 2017レジステッド
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